罰則条項


 一頻り嗤った後、成歩堂はふっと息を吐いた。
途切れて不完全だった線が漸く一本に繋がった。例えるならそんな心境だ。
 それを飲み込む為にも、成歩堂は王泥喜が入れてくれたお茶を手に取る。すっかりと冷えてしまった器には、やはりひんやりとしたお茶がある。正直なところは、飲み馴れたジュースが欲しいのだが、近頃はみぬきと王泥喜が結託して隠してしまうのだ。
 何の事情も知らないはずの二人が兄妹のように仲が良い。それが(縁)というものだろうかと成歩堂は思う。
 人はそれと知らずに、係わりを結んでいく。
 七年前の裁判は成歩堂自身を酷く痛めつけた。弁護士の資格は失うし、未婚なのに子持ちになるしで思い出しても散々だ。
 だけれども、それは全て自分の事。
 向かい合う場所にいた響也にも、深い傷を負わせていたとは思ってもいなかった。迂闊にも、捏造された証拠を自分が提示した事で、彼は彼自身に責のない(罪)を深く刻みつけられていた。 

 ああ、そうだったのか。

 牙琉響也と対峙する度に感じた不快の理由が鮮明になる。彼は自分の(罪)の形なのだろう。だから罪悪感を感じて不快になり、けれど共感によく似た愛おしさを感じる。その傷がもたらす痛みを分かち合える、響也はたった一人の相手だからだ。
 ふいに、自分に駆け寄り、微笑んだ夢の中の彼が浮かんだ。
 鮮やかに、幸せそうに笑う青年に、自分は決して不快な想いなど浮かばなかったことを思う。抱き締めた指先には喜びがあった。あの一瞬だけ、愛おしい、と確かに思えた。

 詰まるところ、それが真実なのだろう。

「また、王泥喜くんに助けられた…かな?」
 明日彼にお礼を言おう。きっと、何の事だかわからないだろうけれど。そう思い、そもそも彼が事務所に来るだろうかと考えて、成歩堂は苦笑した。



 一睡も出来ずに迎えた朝は、ぼんやりとした頭以外は普段通りだった。
 日常は動かないので、響也は頭をまともに動かすべくシャワーを浴びる為にバスルームに向かった。設えられた鏡に写る貌はそれでも普段通りだった。
 自分の肉体を痛めつける趣味など響也には無いから、いままで徹夜などしたことがない。睡眠不足は確実に体力と思考力を削るのだ。仕事をこなす為の必須条件をなくして、二足の草鞋をはき続けることなど出来はしない。
 けれど、ふっと気を緩めた瞬間に思うのは、成歩堂との二度目の情事と彼の事で、眼を閉じると闇に浮かぶのは淫靡な彼の顔だ。

 二度目は酷く遠慮のないものだった。性急で一方的で、はっきり言って響也の趣味からは大きく外れている…なのに、嬉しいとさえ思ったのだ。
 この男は、これほどまでに自分を求めているのだと思え、それを喜ぶ気持ちと共に成歩堂を享受した。
 冷静に考えれば、成歩堂は酷く怒っていたようだったから、その怒りを単に響也に吐き出しただけだったのだろう。それでも(気にならない)と告げた男が、自分を気にしていると思うと、涙が出そうな身体の痛みも許せる気になる。
 
「………馬鹿だな、僕も。」

 それにしたところで、求める相手が悪すぎる。
 自分の事が大好きな女の子なら良かったのに。そうすれば、僕もその娘の事を愛して、誰よりも大切にしてあげられるのに…それが、なんで成歩堂龍一なんだろうか。
 絶望を通り越して、もはや滑稽だろう?
 コックを捻ると飛び出してくるシャワーは、肌を焼いた。チリチリと焦がしていく感覚は、心をジワジワと焙る感覚によく似ていた。表面を伝い流れ落ちていく水滴に、その心にはびこる煤を落として欲しくて水流を強めた。
 
『嫌われている相手との時間など、無駄なだけでしょう?』

 ふいに浮かんだ兄の言葉が、真実に思える。聡明で、それ故に恐くもあり反発もした。それでも助言の言葉に頷き、事なきを得た事だって随分とある。
 シャワーが痛い程に降り注ぐ響也の耳には、もう音など聞こえてこない。兄の声だけが、木霊のように幾度も繰り返し蘇る。

『もう、逢うのはやめなさい。』

 それが、たった一つの真実だと、響也に告げた。


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